Click-a-法話(8): 「桜によせて」


今年もお花見の季節となった。南北に長い日本列島では南から桜前線が徐々に北上し、4月を前後して沖縄から知床まで、3ケ月程にわたり桜のお花見が各地で楽しまれる。

桜は日本のシンボルとされて来た。冬が終わり、のどかな春の到来を待ちかねた人々が、全国各地の桜の名所で花見に出かける。桜の花見は、単なる飲み会の様にも見えるが、仏教で桜は人の世の姿を象徴するものと見なされて来たのであった。桜の花のやさしく上品な美しさをを人々は愛でるが、仏教の賢者たちは、僅か数日で散ってしまう桜の花を無常なる人間存在の姿として捉えたのであった。

桜の花を愛でる人々の心には、無意識ながら、満開の桜にもまもなく散り去り霧散して行く花の美しさを本能的に直感しているかにみえる。もしも桜が何ヶ月も散らずに咲き続ける花であったとしたら、人はこれほど桜を愛でる事はなかろうと思われる。桜のやさしさと美しさは、その命の短さによって裏打ちされている。

それぞれにいただいているつかのまの人生もまたしかり、そのもろさと不確実性なるが故に、如何に精一杯生きねばならぬかが問われるのである。ほんの僅かしか咲かない桜が、全力で咲き誇る姿は見事である。

人間存在の無常の姿を正面から考える仏教は、死の宗教であるとの批判をされて来たのであった。しかし、人間存在の限界と無常なる姿をためらいなく正直に認識する事により、おのれの短い人生が本当の意義を持つ事となる。その意味で、「死の宗教は」実は「生の宗教」であった。桜の花の如く、人間もこの僅かの時間を感謝し、悔いなくいっぱいに咲き、静かに散って行きたいものである。


© Eikyoji, 2002