Click-a-法話(4): 「信仰と理性」


 「信(仰)」と言うと、たいていの人は宗教とか迷信などを連想し、論理・理性・科学などに矛盾するものだと思い込みがちである。しかし実は、人間というものはいつも多くの事を「信じて」生きている。

 例えば、誰もが、明日また太陽が昇るであろう事を「信じて」疑わない。それは天文科学で説明は出来るであろう。しかし、科学でも私自身や太陽に予測も付かない急変が明日絶対に起こらないと保証することは出来ない。人間はおのれの先行きに関しては無知に近いのである。しかし人間は、今現在理解できない多くの事も、必ず科学が答えを出してくれるであろうと「信じて」生きており、薬は効くであろうと「信じて」飲むのである。にもかかわらず、人の多くは、宗教に関しては、理性的・論理的説明が付かないからと言って懐疑の念を抱くのである。

 現代人は、自分自身とその能力を過信して、おのれの運命を自力でコントロール出来ると信じる傾向にある。しかし、私達は自分を含めこの宇宙で起こっている事象の極々一部しか理解出来ていない事に気付けば、我が運命を操作する事などは不可能であると認めねばならないのだが・・・。

 現代科学の成果は、人間にとっては驚異に値するが、それはちょうど、よちよち歩きをおぼえ始めた幼児が、狭い場所を歩き・触れ・観察する事が出来るようになったようなものである。そんな子供のような現代人は、自分が世界を支配しているかの如く錯覚してしまっているのではなかろうか。

 古代人の場合は、どうも人為的に創作された宗教を信じていたかに見える。何故なら、彼らは稚拙なやり方で、神々をなだめたり、神を代弁する事が出来ると錯覚し、おのれの世界を操作しようと試みたからである。

  現代人は、そのような原始的宗教を拒否したが、その代わりに、人間の科学と科学技術を妄信するようになってしまった。その妄信の結果、人間は人間の世界とその運命を操れるのではないかと錯覚し傲慢になってしまったのである。

 仏教では、この両者の誤りを教えてくれる。人間がいくら古代人のように神々に祈ったり、神の代弁者たる能力を有すると自負してみても、それは、現代人がおのれの論理とか理性とか科学を拠所とするのと同様であり、有限なる者がこの世界を自在にコントロールすることは不可能なのである。

 人は如何に在るべきであろうか?先ず人間はおのれの姿を有るがままに見つめなおし、そこに宇宙と人間相互を一体ならしめている事実を発見せねばならない。全宇宙と世界と衆生(全ての生きとし生けるもの)は相互依存の関係にあり、お互いがお互いの一部をなしている事を感知する事である。自然の完全調和・・・つまり明日この世に太陽が昇る事実の中にも、路傍の野花にも、人間がひそやかに抱かれている事の証を見出す事が出来るのではなかろうか。有限なる人間は神々になろうとする事は論外であり、神々の代弁者などになれるはずもない。しかし、一切衆生それぞれの中に、僅かな「神性」と「佛性」のきらめきを秘めている事に目覚めたいものである。  合  掌


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