Click-a-法話(3): 「宗教と戦争」


 宗教と政治の関係は、いつの時代に於いても微妙なものであり、両者は互いに切り離し難い関係にある。為政者が、宗教を政治に利用する事もしばしば起こった。宗教は、政治政策上重要な位置を占めるのみならず、宗教と正義の名に於いて戦いが繰り広げられ事もあった。そして、何時も恒久平和の為にと言って、戦争が行われたのである。人間は、この繰り返し繰り返し起こる戦争の悲劇から学ぶ事をしなかったのか、残念ながら人類の歴史は戦争の反復であった。

 過去の戦争をみると、そこには何時も、戦争に宗教を取り込もうとする人間の意図が見え隠れする。宗教をもって戦争を正当化しようとしたり、宗教で兵士の戦闘意欲を奮い立たせたり、戦争継続の為の国粋的意識高揚の為に宗教が利用された事もしばしばであった。

 考えてみると、本物の宗教が大量殺戮を正当化する事など、不可能な事である。戦争とか政治というものは、有限なる人間の世俗の問題であり、宗教は世俗を超越した究極的な教えであったはずである。殺戮を教える宗教などは存在してはならない。問題は、有限貪欲な凡夫たる人間が、おのれの価値とか願望を宗教に投影し、宗教に人間の行為を許容させようとしする所にある。人間の願望に適った答えを宗教に期待した事も問題であった。このような過ちを幾度と無く繰り返して来たのである。

 宗教を社会政治活動に利用しようとする誘惑は常に存在する。確かに、本物の宗教は、私たちの社会生活に有効な意義を持つ存在でなければならない。宗教などは、日々の生活には実用的でないとか、具体的意味が無いとか言われ批判されて来たのも事実ではある。そのような宗教批判は、社会政治的対処療法によって人間の諸問題が解決出来るであろうとの見解に基づくからである。

 仏教も、決して政治的・社会的施策の役割を否定するものではない。しかし、問題は、如何なる政治社会改革をしても、人間に真実かつ永続的な本物の平和と安心を実現する事が不可能であると言う事である。

 仏教では、先ず人間自信の内省を行う所から出発する。人間は、自己の存在自体の有限性と不完全性を見つめねばならない。人間は、人間の争いの中に宗教を引き込んではならない。宗教は、相対的世俗世間を越えるものである。しかし、だからと言って宗教が世俗問題に無関心である訳では決してない。仏教の最優先課題は、人間がおのれの真実の姿をあるがままに目覚める事にある。人間は、人間の有限且つ利己的価値を宗教に押し付けるべきではない。人間社会の世俗目的達成の為に宗教を利用すべきでもない。

 それでは、この混迷する世界に生きる人間は、如何に日々の問題に対処せねばならないのであろうか。実は、この不完全な社会で生きる人間のために、仏陀(覚者)は、「中道」と言う具体的な生活原理を与えてくださっているのである。中道の教えは、「さとりの実践道」とも言われる。「悲観的過ぎる事なかれ!且つ、楽観的過ぎる事なかれ!そして、真実に現実的であれ!非戦的であり過ぎる事なかれ!そして、好戦的であり過ぎる事もなかれ!常に、現実的であれ!」 この難しい「細い一筋の中道」を歩めと教えらるのである。

 ともすると、何時も静かに微笑む「ほとけ様」ばかりが仏教であると誤解しがちであるが、場合によっては、あの憤怒の相の不動明王のお姿をも思い返すべきである。剣を右手に、綱を左手に、怒りの形相で世間悪に臨まれる事も有るのである。仏陀の慈悲と智慧は、様々な姿でこの世俗世界に顕現してくださるのであった。  合 掌


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