報恩講  

永教寺は、明治33年3月21日(西暦1900年)、松永諦教師によって開かれた浄土真宗のお寺である。諦教とその妻ふでは、3歳の長男諦恵を伴い、富山県から未開の北海道へ渡り、現在地(北海道深川市多度志)にて開教に着手されたのであった。

以来毎年休む事なく「報恩講」がつとられて、今年は第108回目となる。日照りの年も、冷害の年も、豊作の年も、一世紀を超えて続いて来たのである。報恩講とは、浄土真宗の門徒にとっては、最重要行事である。各本山では、11月22日~28日までの一週間にわたり毎年報恩講がつとめられる。11月28日は親鸞聖人の御命日であり、本年は745年目となる。五年後には、50年毎に厳修される750回御遠忌がやってくる。「報恩」は報恩感謝であるから、一般の方々も何となくその意味を理解して下さるが、「講」の方あまりは馴染みのない言葉となってしまているが、今の言葉では「クラブ」であり、信徒の集いの会を指す。報恩感謝の意味を確認する集会ともいえる。報恩感謝と言うと、親の恩とか先祖の恩とかおきまりの感謝を連想しがちであるが、本当の感謝とはいったい何を意味するのであろうか?

親鸞聖人は、我が信心を徹底的に内省し純化し、絶対他力の信心の道を体得され、それを示されたのであった。これ以上の純化は不可能と思われるレベルまで自我を見つめ純化され「佛から賜った信心の自覚」にたどりつかれたのであった。あれもこれも自力であると錯覚し盲信していた人間のおごりが完全に打ち砕かれて、自力が自力ではなく、全てが絶対他力に包まれ生かされている事に目覚められたのである。自力が取り払われ自己の存在全てが実は他力に導かれ照らされ生かされているだとの自覚から、真の「報恩感謝の喜び」が生まれ出てくる。人の力の及ぶ範囲などは、実に微々たるものであり、自分は、実は様々なる無数の御縁と大いなるお力によって生かされている事実を認識する時、おのれの信心もそれは我が信心にはあらず、如来から賜った他力の信心であるとの発見となり、感謝の信心となる。自力の感謝は浅薄なものであるが、他力に生かされる自覚に導かれる感謝こそが本物の感謝であった。

合  掌