歴史と宗教
「ダビンチ・コード」なる映画が話題となっている。イエス・キリストが実は妻帯者であり子供がいたというのである。近年の実証的研究の影響で小説や映画までが、キリスト教会の伝統的教義信仰をくつがえすような 話を提起するようになったのである。
科学的物証とか論拠によって、既成宗教の伝統的教義に疑いを挟む事となったのである。これは現代と言う時代のかかえる当然の現象である。歴史的真実と宗教の関係は 、時には大論争を引き起こすものである。
この点、仏教は比較的問題が少ないように思われる。
1)天地創造について、全知全能の神がこの宇宙世界を創られたと信ずるのも、「ビッグ・バン」から始まったとするにしても、仏教では、宇宙は無始時来であるから、始めを設定する事も終わりを設定する必要もない。仏教徒からすれば、天地創造の始まりを論ずるのなら、いったいそのバンの前はどうだったのか?と問いたださねばならない。始めも無く、終わりもない、とは実に気楽なものである。
2)元々、お釈迦様は、形而上学的疑問いに対しては「無記」(沈黙)の態度を取られたのであった。それが14無記と言われるもので、 この宇宙は有限なのか無限なのか?死後存在は有るのか無いのか?等々と、いくら人間が考えて見ても簡単に答えの出ないような14の疑問に対して、お釈迦様は、沈黙されたのです。そのような疑問を解き明かす前に、今直面している人間の苦しみを如何に解決するかを優先して考えよと教えられたのです。
3)進化論にしても、仏教の縁起の法則からすれば、環境の変化と共に変化し進化すると考えても当然と受けとめられるから、進化論と仏教が衝突する事は一切ない。神が人間を創造されたとかたくなに信ずる事はそれなりの意義があるとしても、進化論が神を冒涜するなどと言う見解は仏教には存在しないのです。
抽象的な宇宙の話や、頭でいくら考えても答えの出ない現実問題に心奪われてしまうと、その答えを見つける前に短い人生の終わってしまいます。今現在人間が直面している、「生きる苦しみ、老い行く苦しみ、病む苦しみ、死んで行く苦しみ」を如何に受けとめるかを第一番に考えなさいというのとお釈迦様は教えられたのです。
昨今ダビンチ・コードが世界中で話題になっている事から、お釈迦様はもともと結婚されて男児をもうけられてから出家された事が思い起こされる。後にお釈迦様の妻ヤショーダラ妃もお釈迦様の教えに帰依したのであった。妻帯はごく自然な事であり、キリストの妻帯の有無の如く問題になる話ではありません。
仏教は現実的かつ自然な教えである事がよく理解出来る。