法話(26) 他力の認識

現代社会の人問の頭で考える理屈というものは、その限界を露呈し明らかに難破している事をよくよく内省します
と、信心こそが残された道であります。現代社会の矛盾と葛藤の中に存在する人問1ことって、いかなる科学や科学
技術を以てしても、人問が常1こ抱えて来た「生きる苦・病める苦・老いる苦・死の苦」を無くする事は出来ませ
ん。
r人問の根本的な苦しみ」は、2500年たった今も変わりないのです。人はこの世に生まれ、肉体的・精神的傷みを
体験し、やがて老い・病み・死するのであります。いかなる科学技術もこの普遍的人問の根本苦を排除する事は出
釆ません。人問はやはり人間であり、限られた命を生きる小さな存在1こ過ぎないからです。

確か1こ外向きには社会的方策によって人の苦痛に対処することも必要です。最善を尽くして努力せねぱなりませ。し
かし、いかなる社会的施策を以てしても、人間が有限なる存在である事実を変える事1まできません。
おのれを見失ってしまった「おごれる人間」は、全てを自カで思いのままに人生も世界をもコントロール出来るか
のように思い誤ってしまっているのです、それは幻想です。人問はいったい何をこれまでに成し遂げて来たのでし
ょうか?来るぺざ時代に最も必要な事は、外向きの社会改革以上1こ、人問の内なる精神的革命が優先されねぱなり
ません。外なる世界を変革しようと考えるまえに、先ず人問は、おのれの姿を内省して、いかに人間が弱い存在で
あり有限な生き物であるかを認識する必要があります。その認識自覚がない姿を「無明」といいます。その無明を打破
することを「さとり」というのです。

「さとり」とは、人間がおのれの有限無智なる真案の姿を認識する事でもあります。それが阿弥陀如釆・他カの
感知1こ繋がります。「永遠なるもの」と有限なる人問」の接点は、「信心」以外にはありえないのです。
おごりの鼻をへし折られて、挫折と絶望を体験する時、人問ははじめて謙虚と感謝の気持ちを発見出釆るのです。ちっ
ぼけで有限な人問を超える「他力(無限の根源的カ)」を発見する必要があります。他カの発見なしに、人問は真
の平穏と安心を得る事は出釆ません。

「他力」と言うことについては、それが具体的にいったい何なのかと、あれこれこまかな論議は尽きませんが、しか
し、誰もが異論なく合意出来るのは、それは有限なる人問ではなく「他なる」と実体験出来る「他」であると言う
事です。
ひょっとしたら人問が世界を支配出来る神様になれるかも知れないと盲信した悲劇の現実を先ず自覚認知せねぱなりません。

そして、人問の内なる変草を目標にせねぱなりません。人間が内側から変革すれぱ、この世はより良い世界となるでしょう。外
的な社会改草の施策は、この世の様々な傷口の応急処置にはなりましょうし、現代の社会の諸問題の認識は、その症
状を治癒する一助にはなりましょう。しかし人問が本当に謙虚になり、おのれの内側を精神的に変革する事をしな
けれぱ、此の世は決して良くなりません。共1こ協力して、内なる精神草命のきっかけを見つけようではありません
か。
    南無阿弥陀佛