法話(23) さとりの知恵と慈悲

12月8日は、お釈迦様が「さとり」を成就された日である。「成道会」と言われるが、
残念ながら、仏教徒ですらその日を忘れがちである。仏教の2500年の伝統は、インド
で35歳の修行僧が、菩提樹の下で「さとり」を閉かれた事から始まる。全ての源泉は
この宗教的覚醒であった。

「覚り」とは、目覚め」であり、「真実を見る」事であり、人問存在のの姿を「ある
がままに見る」事であった。人には五の感覚があり、見る(眼)・聞く(耳)・嗅ぐ(鼻)
・味わう(舌)・触る(身)・事に基づいて考え判断して生きている。しかしながら、
人は、見ていながら見えていない事・聞いていながら聞こえていない事・等々が多々あり
、人問の感覚は味にしても香り1こしても感触1こしても、全てが暖昧であり、主観的
なものである。従って「人問の心」は更に不確実なもので「真実をとらえる事は困難」であ
るのが凡夫の姿である。

お釈迦様は、その迷いの雲に覆われた心を完全1こ浄化して「さとり」をひらかれたの
であった。人問の一切の悩みも苦しみも、先ず正直に向かい合う事から始めねぱなら
ない。真実の姿がしっかりと見えないがゆえに凡夫の苦しみがある。さとりの知慧か
らは自ずと真の慈悲が生まれるのである。本物の知慧は本物の慈悲を伴うものである
からこそ、お釈迦様は、この難解なさとりの心を、無明の雲に心覆われている衆生の
ために敢えて「説法」して下さったのある。説法の御決断は、さとりの知慧が慈悲と
なって衆生に向かってはたらき始めて下さった証であった。