Click-a-法話(22) 「 二河白道」 信の一筋の道
善導大師が教えられたのですが、お浄土へ生まれたいと願う者がどのようにして入信して往生に至る事が出来るのかを示されたのが「二河白道」の喩えである。
西へ向かう旅人があり、途中まもなく爆流渦巻く「水の河」と燃えさかる「火の河」岸に至るのであった。猛火の河は南側に果てしな続き、爆流水の河は北側に際限なく流れれいる。この荒れ狂う水と燃えさかる火の河幅は百歩程であるが、それは底なしの河であった。水と火の境界線に極めて細い一筋の道が対岸へ繋がっているのが見える。そのわずかの狭い白道も絶えず左からは爆流水に洗われ、右からは猛火に焼かれている。まわりには人影もなく寂しい場所であり、後方から追いかけて来る盗賊や悪獣がまさに旅人に襲いかからんとするのであった。絶体絶命の窮地に立つ旅人は:「この河は南北に遙か遠く、目の前の道は極めて狭い。この岸とかの岸の距離はそれほど遠くはないけれども、どうしてこの危険な細い道を渡る事が出来ようか。間違いなく死ぬであろう。川岸に沿って南へ逃げても北へ向かっても、盗賊と悪獣に襲われ、目前の細い道を渡ろうとしても必ず水か火のどちらかの中に転落して命を失うであろう」と思い、強い恐怖に襲われるのであった。窮地に追い込まれ絶望した旅人は、「今となっては、引き返しても死であり、ここに止まっても死であり、前へ進んでも死ぬであろう。そうであれば、むしろ私はあえてこの細い道を進んで行こう。細くとも目前に既にある道を渡って行こう」と決心したとき、こちら東岸で何処からか声がして「汝、決心してこの道を進みなさい!必ず助かるべし。止まれば死するべし」と旅人に教えるのであった。すると西の対岸からも呼びかける声が、「汝、一心に正しく念じて直ちにこちらへおいでなさい!必ず守ってあげますから、水火の河を恐れずに・・・・」と。旅人は、この岸と彼の岸からも聞こえる声に導かれ、自ら身も心も確信して疑いの心も後退する気持ちも無くその細い道を少しずつ渡り始めた時、東の岸から盗賊達が「戻りなさい!その道は悪く危険だ!必ず死するべし!悪いようにしないからこちらへ戻りなさい!」旅人はその声にも耳をかさず、一心に直ぐに道を念じて進むと、無事にあっという間に西の岸に渡る事がで来たのである。それは大いなる喜びの成就であった。
このストリーを解説すると、「東の岸」というのは、この世界(娑婆)であり、「西の岸」と言うは極楽浄土を指す。盗賊悪獣は、人間の感覚器官・その対象・人間の迷える心身・等などであり、人影もない寂しい場所とは、悪友にばかり惑わされ、真の友や師匠に出会わない状態を意味する。爆水の河は、人間のあくなき貪りの世界であり、熾盛の炎の河は、人の怒り憎しみを表します。その中間の細い白道は、煩悩まみれの中にも、殊勝にも「清浄なる世界に到達したいとの願い」を生ぜしむる喩えである。人間の欲望と怒りの心は非常に強いもでであるから、それは爆水と火焔に喩えられる。また人の善心は、微妙であり僅かであるから、それは細い白道と言われる。水と炎がその道を絶え間なく覆うとは、愛欲の心(暴水)が善心を染汚する事で、怒と嫌の心(火炎)が大切な功徳の宝をも焼き尽くす事を指す。東の岸で聞こえた声は、釈尊の滅後にあってもその教えをいただく(聞尋する)事である。白道を少し進みかけた旅人を呼び返す群賊とは、誤った異なる教えを説いて人を惑乱させ、自らも罪業を作って後退する事を指す。西の岸からの呼び声は、阿弥陀如来の招喚である。
生まれ変わり死に変わりして輪廻し迷える人間が、お釈迦様の教えを仰ぎ、西へ進まさせていただく時、釈尊と阿弥陀如来の教えに従って、水火二河を乗り越えて弥陀の願いの白道を歩み命終してお浄土に生まれる事を得て佛と相見え喜びを獲得する事が出来るのである。
私達の真実の信心は仏様から与えられるものであり、佛のまごころ(至心)を与えられそれを感得する事によって、佛に全てをまかせきって救われたいと願う(信楽)心が生じ、浄土に生まれたいと願う(欲生)事が出来るのである。ここに、他力誠のお念仏こそが、いかなる行よりも浄土往生の究極の善と認められるのであった。
毎年2回巡ってくる春秋のお彼岸にちなんで、善導大師の「二河白道」の喩えをおさらいし、あらためて、絶望から救いへの道筋が確認される事である。 困ったとき、苦しいとき、にこそ、救われたいとの誠の願いをもって不退転一心一向に阿弥陀仏の御名を称えるならば、細く狭い一筋の道をも恐れず迷わず歩む事が出来るのである。
「必ず渡しける」との声を疑いなく信ずる事こそが、生きる「力」となる。彼の岸へ至る道は、信力に裏打ちされた阿弥陀如来召喚の道である。