Click-a-法話(21) 「幸せの生き方」
永教寺で毎年厳修される報恩講は、今年が第105回目となりました。明治33年(西暦1900年)以来、冷害の年も豊作の年も戦時中も、休み無くおつとめさせていただいてまいりました。入植以来、タドシは一巳村・多度志村・多度志町へとなり、そして深川市へ合併と変遷の道を歩みました。
既にお浄土の人々となられた、多くの開拓時代の檀信徒の方々の念力が、見事な本堂となり、納骨堂・庫裡・山門等諸堂の建築となって今日に至りました。豪雪と極寒の土地での御苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったろうと思われます。そんな生活の中にも「信は力なり」と言われるように、お念仏の信心を拠り所として、開拓に励まれ、農業生産と生活の基盤を築かれたのでありました。
苦しい時・悲しい時・喜びの時とそれぞれの人生の場面で、「報恩感謝」のお念仏を忘れずに、パイオニアの御先祖の皆さんは厳しい大自然の中で御苦労下さったのでありました。報恩感謝の心が、貧しい中にあっても、人生を豊かにしてくれます。不平と不満ばかりを主張する生き方からは、本当の喜びも幸せの実感も生まれる事はありません。
仏教は、悲観主義でも楽観主義の教えでもなく、実は現実主義の宗教であります。その観点からすれば、「人生は苦なり」とは、真実の人間の現実であります。苦しい事や悲しい事、失望する事の方が多いのが現実の人生であります。明日朝目覚める事が無くても不思議ではない自分が、今日もなんとか「生かさせていただいている」事を考えねばなりません。私の命を支えて下さる一杯の水、一口のご飯、等々、あたりまえと思っている身の廻りの一切のものによって生かされているのです。物に限らず、人間は多くの人々の目に見えない恩恵をもいただいて生かされております。悲しいかな、おごる人間は、自分の力だけで生きていると錯覚しているのです。
如何に多くの命をいただいて人間は生かされている事でしょうか。無数の命の上にこの命が維持されているのです。感謝しても感謝しても、感謝し足りないのが人間の現実であるのですが、ともしますと、不平と不満ばかりの生活になりがちであります。
つかの間の人生です。欲張ってみても、威張って見ても、同じく短い人生です。一日一日をおおらかに、他人に優しく、ほほえみながら、生きるのが賢明でありましょう。幸せの人生、充実の人生を求めるなら、先ず「生かされている事」を自覚し、あたりまえと思い込んでいる全てに「感謝」する事に気付く事が必要です。路傍の野草を一輪見ても、そこには自然の美しさがあり、山も川も、朝日も夕日も、満月も三日月も、見る心がある人には、全てが光輝く「お浄土」であります。豪邸に住みながら、地獄の人生を過ごす人もあり、あばら屋にあっても至福の生活の出来る人もおります。その人の心のあり方が問題であります。
「咲く花や、この世住まいも、今少し」
「乞食小屋、富のおちけり、春の雨」
短い人生に、咲く花をめでて、貧しい家にあっても春雨の恵みに感謝する清貧な小林一茶の俳句が思い出されます。いまいちどそれぞれの人生のありようを反省し、感謝の心を再確認させていただきましょう。幸せで充実した生き方は、すぐ目の前にあるのです。
貴方は幸せですか?不平と不満の人生ですか?
© Eikyoji、2002