Click-a-法話(2): DNAと業
貴方のお手紙の「DNAの逆襲」の話し、興味深く拝読しました。DNAに付いて仏教者の立場から、少し御返事致します。
仏教の善知識(先人思想家)達は、電子顕微鏡が無い時代に、宗教的直感を通して、人間の業(行い・生活・存在)を、表業(目に見える業)と無表業(目に見えない業)とに分けて説明しています。
「表業」とは、いわゆる現代科学の言うDNAで、われわれの肉体的特徴など細胞に組み込まれた遺伝的要素であります。それは、無始時来(始点のない時から続く)から、私達の命の中に存在する業を指します。現代の科学の説明もここまでのように見うけられます。
しかし仏教では、宗教的直感から、この表業よりもっと深いところに、「無表業」が細胞の全てに刷り込まれていて、それが物理的特徴以上の遺伝的影響をもたらすと考えたのです。細胞に意思があると考えた免疫医師がいらっしゃるそうですが、まさしくそれも無表業の働きでしょう。臓器移植の拒否反応は、細胞の拒絶意思表示のようにも感じます。貴方も年輪と共に、しぐさや話し方が何処と無く父親の雰囲気に似て来た様に見うけられますが、これも無表業のなせる業(わざ)かもしれません。
仏陀は宿命論を否定されましたので、仏教の業論は運命論でも偶然論でもありませんが、人間それぞれの細胞に刷り込まれているのは、目に見える業だけでなく、さらに「無表業」があると考えます。その意味では、人の自由意思はごく限られたものになるのも事実です。生まれた時点で、人は皆無数の業を背負っております。単純な「人の自由意思」なるものの殆どが幻想でしょう。自己の人生を見つめて見ればその事実は明白です。不思議な因縁(直接間接の要因)と、他なる(自己を越えた)何かによって生かされ、導かれていると実感させられます。
宿命でも偶然でもなく、また全知全能の神?が決めたもうたものでもなく、因果の縁起(法則)とでも言うべき事実の中で、私達は生かされ、ささやかな努力をして生きているのです。
© Reno Buddhist Church