Click-a-法話(18): 「安楽死」


お寺の13歳になるユキ(ゴールデンリトリーバー)が腎臓を患って死んだ。この犬は、カリフォルニアから2歳の時永教寺へ来て、11年間お寺の忠実な監視犬として働いてくれた。ユキが腎臓病に苦しんだのは、僅か1週間程であったが、最後の世話をしながらじっくりと死に至る過程を見取る事が出来た。ペットを愛する買主なら同様に感ずる事であろうが、ペットに限らずれ人間にとっても、病院で死の病にある人の世話をする者にとって、時には「安楽死(ユースネジア)」への思いが心をよぎる。

「安楽死」の問題は、近年広く論議されて来たが、ペットに限らず、安楽死が人間を死の苦痛から解放する?手段として議論されているのである。その論議を聞いて見ると、安楽死を肯定する考え方の背後には、必ずしも「死を迎える当人」のための方策というよりも、むしろ死の床にある肉親の死の過程を見取る苦しみから家族を逃避させるためではないかとの懸念もされるのである。

また、医者が患者に不治を告知すべきかどうかの議論もあり、足を骨折したに過ぎない馬を射殺(楽にしてやったり)したり、人は、「苦しみから楽にしてやる」との理由で傷ついた動物を安楽死(殺傷)させたりもする。

考えてみると、それは、人間の「おごり」にも見える。人間は知らず知らずのうちに、命をも自由に我が意思でコントロール出来るかの如き錯覚をし、その生と死の決定権を我が手に納めてしまっているとおごっているかにも見うけられる。

人間が生命を自由に出来るはずはないし、「あらゆる生命」は人間を越えたところから「賜ったもの」であるはずだ。死もまた同じであり。人間は自分が生・死を支配できるかのよに錯覚しているかもしれないが、それは不可能である。

如何なる命であっても、それが死んで行く現実の姿を見守ることは苦痛であり、死そのものも苦である。考えて見るとその苦痛は、死んで行く当事者の苦ではない。私達はそれを直接感ずることは出来ない。我々の苦痛は、死の過程を見る方の苦しみである。この死に対する苦痛の感情を、精神的に冷静に浄化して見ると、生命の喜びと死の苦痛は、共に生きる事に包括されている事に気付かされる。瀕死の人の心を読み取る事は不可能であり、推測にすぎない。死の過程にあっても、その当人が周囲の日差しや雨や草の香りや音楽の気配をどう感じているかは、当人以外には実感できない。死の床にあっても、そんな最後の記憶が、ひょとすると生きていた事の最も大切はものになるかも知れない。

有限なる人間が、おのれの都合や感情だけで、他の命の生や死をコントロールすべきではないように思われる。私達に賜ったこの貴重な命を大切にし、生は死と一体である事を認識して、生きる事と死ぬ事の両者に合掌させていただきたいものであります。

合 掌


İEikyoji、2003