Click-a-法話(15): 「命の権利」


命の権利?

「命の権利」とか「生きる権利」と言う事が近年声高に取り沙汰されているが、佛教ではいつも「生命と言う事」について教えて来た。世間で一般に「生命」が問題にされれる時は、基本的に「人間の命」に限定されているが、佛教では「命」とは「一切衆生の命」であると考える。

一切衆生とは、全ての生きとし生けるものであり、人間もその僅かな一部を占めているにすぎない。その少数の人間が、他の生命を思うがままに扱う権利があるかの如く思い込んでしまって来たのではなかろうか。

他の生命体の視点からすれば、人間が一番の脅威であろう。人類はこの世界を壊滅させる事が出来る能力を持つ事となり、人間自身を含む全生命を死滅させる事も出来るようになってしまった。このような圧倒的パワーの前に、人間が謙虚となりその事に伴う責任感を実感するはずであったが逆に人間は奢りはじめたのではなかろうか?

人間は自己の命の権利ばかりに気を取られ、他の無数の生き物達の命の権利について考慮する事をおろそかにして来たのではなかったろうか。人は他の生き物に囲まれて共存して生きて来たのであるが、可愛らしいとか・人間に似ているとか・役に立つとかの基準では多少他の生き物に注意をはらって来ただけであろうか?

日本やアジア諸国の海鮮料理店等で、客が水槽から好みの魚を選ばせて、それを調理して食べさせるところがあるのは、魚からすれば、人間の極めて勝手な振る舞いであり、魚は単なる人間の食欲の対象でしかない。アメリカの牧場で飼育される無数の牛たちや七面鳥ファームで好みの鳥を感謝祭のテーブルに選んだりするのも、同罪であろうか?スーパーで売られているパックされた肉も、他の動物であれ植物であれ、全ての食品がこの地球上の生命体であった事を忘れてはならない。ジャングルで人肉を食べる首狩族を野蛮であると現代人は言うが、他の生命体を種々に食する人間はそれほど文明人?といえるであろうか?

環境保護を訴える人々は、人にも似た鯨・イルカを救えと主張するが、サンマを救えと言う声は聞いた事もない。救えと言ったとすれば、それは水産資源の減少を危惧する人間の御都合の主義に過ぎない。人間は他の生命なしには、生きられない。生存には他の生命が必須なのである。これが悲しいかな、人間の業である。肉食を止めて、菜食主義者になったからと言っても、無数の植物の命をいただく事では同じ事である。避けて通れない人間生存の姿がある。他の生命なしには生きられない人はどうすべきであろうか?

単に人間の欲望を満たすだけの不必要な殺生は心して避けねばならない。食い道楽とか食通とかグルメの美名での「踊り食い・活きつくり」などと言われるものなどは、言語道断である。人間以外の生命をなんとも思わない人間の奢りの蛮行である。人間が毎日いただく食物は、人間の命を生かしてくださる「命のめぐみ」である。それを食する人は、その命のめぐみに対して、謙虚と感謝の心を忘れずに生活させていただきたいものであります。他の一切の生命も、人間と同様に「生きる権利」を有している事を肝に銘じたいものであります。

一切衆生と共存し、生きるのではなく、「生かされている人間」の事実を忘れずに・・・・・                                                   合   掌


İEikyoji、2003