Click-a-法話(11): 「業」・・因果の法則・・因果応報
佛教の「業」という言葉は、「行為」を意味する。人間の生活の中の一切の行為が、自分では想像出来ないほどの結果をもたらす。言い換えれば業とは、縁起の法であり、それは「因・果の法則」でもある。人間は、身(体で作る業)・口(言葉で作る業)・意(心で作る業)の三業を限りなく造って生きている。その業には、善業・悪業等など種々様々の業があるが、人間の生活は、限りない業を造る生活であり、善悪の意図的行為のみならず、何気ない行為であっても、それら一切が直接間接に計り知れない「果」となって連鎖して行く。これが因果応報のルール(縁起)である。自己の生活行為の一切が、無限に連鎖して、想像を絶する程無数の結果(影響)をもたらす事に人は気付かねばならない。何気ない日常の生活行為・・・・水・電気・ガス・電話・新聞・テレビ・等などの全てに関わる人間の行動が、おのれの世界に少なからぬ影響をもたらしているのである。
目に見えない人間の業(行為)が、しばしば目に見える業以上の結果をもたらす事がある。人のちょっとした一言が、その後の人生を大きく変える事がある。誠実な発言・悪意の発言等々、その言葉が周囲の人々に与える影響は甚大である。
「愛の告白の言葉」が結婚となり、子々孫々へとつながり、「宣戦布告」により、国家社会の歴史はもとより、多数の人々の人生が犠牲となる。日常生活の中での何気ない不機嫌な言葉が、池に一石を投じて出来た水の輪の如く家族に次々と広がって行く。人の一言が、怒りを誘い、それが予測も付かない悲劇をもたらす事も多々ある。事実その波はその波を作った当人に戻ってくる事となる。水の波の輪が、次々と広がって伝わり、岸辺にたどり着くと、再び中心へ戻って来るのである。水の輪の中心へ波が逆流するのである。自分の一言の起こした業の輪は、結局は自分に戻ってくるのである。これが因果応報の法則(縁起)であった。
古い喩え話に、「蹄鉄の一本の釘の打ち忘れが、蹄鉄の欠落を招き、それが馬の転倒の原因となり、それが騎手の落馬となり、そしてその事が次々と影響して騎馬軍の敗北となり、国の敗戦となる」と言われる。蹄鉄の釘を一本打ち忘れた事が、当人の予測も付かない結果となる。
人は、その行為が作り出す全ての「業」に責任があるわけで、些細な行為行動にも責任がある。それは、私達が「常に己の行為に対し内省」しなければならないと言う事である。そして、人間ひとりひとり(あらゆる存在)が、見えない無数の業縁の糸で結ばれている事の発見でもあります。それは、家庭が、社会が、国家が、地球世界が、そして全宇宙と私が互いに結ばれていると言う事実の認識をせよと言う事でもあります。
業の法則・因果応報のルールは、一切衆生を包み込む、普遍的真実である事がわかる。
© Eikyoji、2002