Click-a-法話(10):  全てが「ほとけ」 (一切衆生悉有佛性)


一般に「衆生」と言えば、生きとし生けるものを指すと考えられているから、それは有機生命体であり、無機物とは区別されている。バクテリアのような微生物から動植物、そして人間をも含めての全ての生命体が「衆生」と考えられている。その一切衆生であるが、先ず、仏教では、人間が他の生き物より優れているなどとは見なさないし、生き物に優劣をつける事もしない。一切の命がそれぞれにそれぞれの存在意義を有しているのである。その意味では一切の衆生は平等である。同時に一切の衆生には、「仏性」、つまり、ホトケの素質が備わっている。ホトケの輝きが内在されていると教えるられるのである。

さて、「衆生」とは生物だけであろうか?宇宙時代に入り、初めて地球を遥かかなたから眺めた宇宙士達は、地球そのものが微妙にバランスの取れた生命体であると私達に教えてくれた。以前、アメリカで「ペット・ロック(ペットの石)」が流行った事があった。馬鹿げたジョークにも思われたが、話題にのぼるほど売れたのであった。小さなボール箱に入った石を、あたかも生きたペットの如く飼育?するのである。最近では、コンピュータ技術を駆使した人造ペット犬も売られている。金属とコンピュータの集合体のロボットも生き物のような錯覚を与える。

果して、生命と非生命の区別は出来るのであろうか。通常の科学では、生物と無生物とを区別して考えるようである。しかし、佛教の先達は、衆生の中に石ころ木片のような非生命をも含むかどうかを論じた事もあった。大乗佛教の立場は、一切衆生とは全ての存在であるとの思想であり、生命の大小のみならず、石ころに至るまで、全存在に仏性を認める壮大な宗教思想である。生きとし生けるものは勿論、宇宙の全存在に「佛の輝き」があるとの確信である。それは衆生つまり山川草木の全存在(法)に対する敬虔かつ謙虚な信仰的態度と言っても良い。

その無数の衆生に支えられつつ、その御蔭様で、私の存在が成り立っており、私の命が維持されているのであった。佛教も他の宗教も「殺生」は御法度であり、生命尊重は当然である。しかし、同時に大切な事は、人間が如何に多くの命を犠牲にして生存しているかの事実に無智であってはならないと言う事である。無数の命の犠牲なくして、私の命は存在しえないのである。その内省的自覚なしには、声高な自然保護・環境保護の主張も偽善的なものとなってしまう。

一切の衆生に佛性が内在するとの認識から、日々の生活が始まらねば、人間は、果てしなく環境を破壊し生命を殺戮し続ける事となる。それは、人間みずからの破滅でもある。一杯の水・一粒の米、そして衣食住の一切に深く感謝する生活原点に立てば、人間救済の光明が見えて来るに違いない。

一切衆生にあらためて合掌礼・・・・・。


© Eikyoji、2002